思春期と自我
次の文章を読んで最後の問いを考えてみよう。
なぜ「自分」になることは苦しいのか
「自分らしく生きたい」という言葉を、私たちはよく耳にする。
けれども、考えてみると不思議な言葉である。「自分らしく」と言うためには、そもそも「自分」がどのような人間なのかを知っていなければならない。しかし、「あなたはどんな人ですか」と尋ねられて、すぐに答えられる人はそれほど多くないだろう。
明るい人。おとなしい人。勉強が得意な人。スポーツが好きな人。友達を大切にする人。
いくつかの言葉を並べることはできる。だが、それらは本当に「自分」なのだろうか。
たとえば、「明るいね」と周囲から言われ続けてきた人が、一人でいるときにはひどく落ち込んでいるかもしれない。「勉強が得意」と言われている人が、本当は勉強より絵を描いている時間に自分らしさを感じているかもしれない。
私たちは、自分のことを知っているようで、意外なほど知らない。
そして、この問題が急に大きくなる時期がある。
思春期である。
Ⅰ 他人の目の中にいる自分
幼い子どもは、初めから「自分とは何者か」を知っているわけではない。
親から「優しいね」と言われる。先生から「よく頑張ったね」とほめられる。友達から「足が速いね」と言われる。
そうした言葉を受け取りながら、「自分はこういう人間なのだ」という像を少しずつつくっていく。
つまり私たちは、最初から自分一人で自分をつくるのではない。他人という鏡に映った自分を見ながら、自分を知っていくのである。
これは決して悪いことではない。
むしろ、他者という鏡がなければ、私たちは自分自身を見ることさえ難しい。
自分では気づかなかった長所を友達に教えられることがある。自分では正しいと思っていた行動を誰かに批判され、初めて自分の身勝手さに気づくこともある。
私たちは、他者の目を通して自分を知る。
ところが、思春期になると、この「他人という鏡」に小さな違和感が生まれ始める。
親から「あなたにはこの高校が合っている」と言われる。
先生から「君ならもっと上を目指せる」と言われる。
友達から「もちろん一緒の高校に行くよね」と言われる。
以前なら、それらの言葉をそのまま受け入れられたかもしれない。しかし、ある時ふと考える。
「それは、本当に自分が望んでいることなのだろうか。」
この小さな疑問は、とても重要である。
なぜなら、それまで他人から与えられていた「自分」と、自分自身が感じ始めた「自分」との間に、初めて隙間が生まれたからだ。
夏目漱石は、これに通じる問題を「他人本位」という言葉を用いて考えた。
漱石が生きた明治時代、日本には西洋の文化や思想が猛烈な勢いで流れ込んできた。何が優れた文学なのか。何を学ぶべきなのか。どのように生きるべきなのか。日本人は西洋という巨大な基準を前に、自分たちの価値を測ろうとした。
漱石自身もまた、西洋文学を学びながら苦しんだ。
他人が「優れている」と言うものを優れていると思おうとする。他人の基準によって、自分の感じ方まで決めようとする。
しかし、それを続ければ続けるほど、自分が本当は何を感じているのかわからなくなっていく。
もちろん、漱石のいう「他人本位」は、もともと思春期について説明するための言葉ではない。だが、この考え方は、思春期に起こる変化を考える一つの手がかりになる。
「偏差値が高い学校だから。」
「みんなが持っているから。」
「いいねがたくさん付いているから。」
「親が喜ぶから。」
判断の理由をたどっていった先に、いつも「誰か」がいる。
問題なのは、他人の意見を聞くことではない。他人の評価を借りなければ、自分の価値や自分の選択を確かめられなくなることである。
他人という鏡は、自分を見るために必要である。
しかし、その鏡に映った姿だけが自分だと思い込めば、今度は鏡なしでは自分がわからなくなる。
思春期に生じる違和感は、そこから抜け出そうとする最初の動きなのかもしれない。
Ⅱ 「私はどう思うのか」
漱石は長い苦悩の末、「自己本位」という考えにたどり着いた。
この言葉は誤解されやすい。
自己本位とは、「自分さえよければよい」という意味ではない。「人の話など聞かず、好き勝手に生きればよい」ということでもない。
むしろ重要なのは、判断の最後の場所を、自分の中に取り戻すことである。
他人がどう思うか。
世間でどう評価されるか。
みんなが何を選んでいるか。
それらを知ったうえで、最後にもう一度、
「では、私はどう思うのか。」
と自分に問い返す。
この問いを持つことが、自己本位の出発点である。
思春期になると、子どもはこの問いを持ち始める。
だから、親に反発する。
先生の言葉を疑う。
友達と違うことを恐れながら、同じであることにも息苦しさを感じる。
大人から見ると、それまで素直だった子どもが突然扱いにくくなったように見えるかもしれない。
しかし、本人の内側ではもっと重要なことが起きている。
「あなたはこういう人だ」と言われて生きてきた人間が、初めて、
「私は、いったい何者なのだろう。」
と考え始めているのである。
これは、自我の誕生というより、自我の「引っ越し」と考えたほうがよいかもしれない。
それまで自分について判断する中心は、親や先生や友達の側に置かれていた。そこから少しずつ、その中心を自分の側へ移していく。
だが、この引っ越しは簡単ではない。
なぜなら、自分で決めるということは、自由になることであると同時に、責任を引き受けることでもあるからだ。
「親に言われたからこの高校を選んだ」と言えば、うまくいかなかったとき、親のせいにすることができる。
しかし、自分で選んだなら、そうはいかない。
未来が一つしかなく、自分で選ぶ余地がないのなら、そこには迷いも後悔も生まれにくい。複数の可能性を想像できるからこそ、「別の道もあったのではないか」と考える。
つまり、自由とは可能性が増えることである。そして可能性が増えるということは、同時に、選ばなかった可能性を背負うことでもある。
だから人は、自由になるほど悩むのである。
Ⅲ 「自分で決める」だけでよいのか
しかし、ここで一つ疑問が生まれる。
何でも自分で考え、自分で決めることが、それほど大切なのだろうか。
「人の意見に左右されるな。」
「自分らしく生きろ。」
「自分の気持ちに正直になれ。」
こうした言葉は力強く聞こえる。
だが、もし誰もが「自分がそう思うから」という理由だけで行動したら、社会はどうなるだろう。
自分が本音を言いたいから、相手が傷ついても構わない。
自分が自由にしたいから、周囲の迷惑は考えない。
自分が正しいと思うから、違う考えを持つ人の話は聞かない。
それは「自分らしく生きる」ことではなく、単なる独りよがりになってしまう。
そもそも、私たちが「自分の考え」と呼んでいるものさえ、本当に自分一人でつくったものなのだろうか。
使っている言葉は、誰かから教わったものである。
大切だと思っている価値観にも、家族や友達や社会から受けた影響がある。
一冊の本によって考えが変わることもあれば、友達の何気ない一言によって、それまで見えなかったことに気づくこともある。
だとすれば、「自分」と「他人」を完全に切り離すことはできない。
他人本位から離れるために他者の声をすべて消してしまえば、自分を形づくってきたものまで失ってしまう。
ここに、「自分らしく生きる」ということの難しさがある。
Ⅳ 自我と自我が出会うとき
自分が「私はこうしたい」と考えるように、目の前の友達にも「私はこうしたい」がある。
自分に大切なものがあるように、相手にも大切なものがある。
しかも、その二つは必ずしも一致しない。
自分は一人で静かに過ごしたい。しかし友達は一緒に帰りたいと思っている。
自分は本音を言いたい。しかし、その本音によって相手が傷つくかもしれない。
自分は好きな高校へ進みたい。しかし、親は別の進路を望んでいる。
自我を持つということは、「自分の思い通りになる」ことではない。
むしろ、自分の意志がはっきりすればするほど、それとは異なる他人の意志もはっきり見えるようになる。
ここで、自我と自我がぶつかる。
漱石の小説には、このような人間同士の難しさが繰り返し描かれている。
人を愛したいのに、自分の欲望が相手を傷つける。相手を信じたいのに、自分の心から疑いを消せない。自分らしく生きたいのに、自分だけでは生きられない。
人間は一人の「個人」でありながら、他者との関係なしには生きられない。
ここに、自我の根本的な矛盾がある。
そして思春期とは、この矛盾を初めて本格的に経験する時期なのではないだろうか。
「一人にしてほしい」と思う。
しかし、誰からも連絡が来なければ寂しい。
「人にどう思われてもいい」と言う。
しかし、友達の何気ない一言が一日中頭から離れない。
親から自由になりたい。
しかし、本当に困ったときには助けてほしい。
誰かを好きになる。
だからこそ、嫌われることが怖くなる。
矛盾しているように見える。
しかし、どちらか一方が偽物なのではない。
どちらも自分なのである。
思春期の苦しさは、自分がまだ未熟だから生じるだけではない。
自分とは異なる意志を持つ他者と生きながら、それでも「自分」であろうとするところから生まれる苦しさでもある。
Ⅴ 悩みはどこから生まれるのか
私たちは「悩み」というものを、できればなくしたいと考える。
もちろん、心や身体を壊すほど一人で抱え込む必要はない。苦しいときに他者へ助けを求めることは大切である。
しかし、だからといって、すべての悩みを人間の弱さとして考える必要もない。
人が悩むのは、複数の可能性を見ることができるからである。
こちらを選べば、あちらを失うかもしれない。
自分を大切にすれば、誰かを傷つけるかもしれない。
誰かを優先すれば、自分を偽ることになるかもしれない。
どちらが絶対に正しいのかわからない。
それでも、いつかは選ばなければならない。
悩みとは、そうした複数の可能性の間に生じる摩擦なのである。
小さな子どもには、大人が答えを与えられることが多い。
「こちらへ行きなさい。」
「これはしてはいけません。」
「こうすれば大丈夫です。」
しかし、成長するにつれて、誰にも完全には答えられない問いが増えていく。
どんな人間になりたいのか。
誰と生きていきたいのか。
何を大切にしたいのか。
自分にとって幸福とは何なのか。
これらの問いには、教科書の巻末を開いても解答は載っていない。
だから、自分で考える。
しかし、自分だけで考えても答えが出ない。
そこで他人の言葉を聞く。
そして再び、自分で考える。
自分の考えを他者に伝える。
反対される。
考え直す。
それでも譲れないものが残ることもある。
反対に、自分が正しいと思っていたことを手放すこともある。
この往復を続ける。
おそらく、「自分」というものは、その往復の中でつくられていく。
Ⅵ 「本当の自分」はどこにいるのか
「本当の自分を見つけたい」という言葉がある。
しかし、「本当の自分」が心の奥に完成品として隠れていて、それを発見すればすべての迷いが消える、と考えるのは少し違うのではないだろうか。
私たちは経験によって変わる。
出会った人によって変わる。
失敗によっても変わる。
昨日まで嫌いだったものを、明日好きになるかもしれない。
絶対に正しいと思っていた考えを、数年後には間違っていたと思うかもしれない。
だとすれば、「自分」とは発見するものというより、選択し、失敗し、他者と出会い、考え直すことによって、少しずつつくられていくものではないだろうか。
先ほど、自我の形成を「引っ越し」にたとえた。
しかし、この引っ越しには、一度たどり着けば終わりになる住所がないのかもしれない。
親の側から自分の側へ移れば完成するわけではない。
他人の言葉を聞く。
自分のところへ戻って考える。
自分の意見を持って、もう一度他者のところへ行く。
そこで異なる考えに出会い、再び自分へ戻ってくる。
自我とは、どこか一か所に住み着くものではなく、自分と他者との間を何度も往復しながら、そのたびに形を変えていくものなのかもしれない。
そう考えると、一見すると反対に見える二つのことが、どちらも必要だとわかる。
他人から離れなければ、自分にはなれない。
しかし、他人から完全に離れてしまえば、自分を知ることもできない。
自分の意見を持たなければ、他人の意見に流される。
しかし、自分の意見だけに閉じこもれば、自分とは異なる世界を見ることができない。
自分で選ばなければ、自分の人生にはならない。
しかし、自分一人だけで人生をつくることもできない。
この矛盾は、簡単には解消できない。
むしろ、人間である以上、ずっと抱えていくものなのだろう。
Ⅶ なぜ「自分」になることは苦しいのか
思春期に入ると、それまでより悩みが増える。
友達のこと。
親のこと。
進路のこと。
恋愛のこと。
自分の容姿や能力のこと。
そして、「自分は何者なのか」という、答えの見えない問い。
しかし、これらはまったく別々の悩みなのだろうか。
その奥には、一つの共通した問いがあるように思える。
「他者の中で、私はどうやって私であり続けるのか。」
親から離れたいのに、認めてもらいたい。
友達と違う人間でありたいのに、仲間外れにはなりたくない。
誰かを愛したいのに、自分も傷つきたくない。
自分で進路を決めたいのに、その選択が間違っていたら怖い。
私たちは他者から独立しようとする。
しかし同時に、他者を必要としている。
だから、「自分」になることは苦しい。
けれども、その苦しさをなくすことだけが成長なのではない。
誰かから与えられた答えをそのまま受け取らず、
「では、私はどう思うのか。」
と問い返す。
自分なりの答えを持ったあとで、
「では、あなたはどう思うのか。」
と他者に問いかける。
そして、その答えによって再び自分が揺さぶられる。
その繰り返しの中で、「自分」は少しずつ形を持っていく。
思春期とは、完成した「自分」を発見する時期ではない。
他人から与えられた自分をいったん疑い、自分自身の声を探し、その声とは異なる他者の声に出会いながら、「自分」という存在をつくり続けることを始める時期なのである。
そうだとすれば、悩むということは、ただ立ち止まっていることではない。
それは、自分だけの答えを探していることでもない。
自分とは異なる他者がいる世界で、それでも自分として生きようとすることである。
自我とは、他人から完全に独立したときに完成するものではない。
他人とは違う自分を持ちながら、それでも他人とともに生きようとする。その難しさの中で、自我は何度でもつくられ続ける。
だから私たちは、おそらく大人になっても悩む。
それは、まだ「本当の自分」を見つけていないからではない。
他者とともに生きながら、自分であり続けようとしているからなのである。
参考文献:『悩む力』著者 姜尚中
問一 「自我の引っ越し」について
本文中で筆者は、自我の形成をはじめ「引っ越し」にたとえていますが、後に「この引っ越しには、一度たどり着けば終わりになる住所がない」と述べています。
筆者がこのように考えるのはなぜですか。「他者」と「自分」という言葉を必ず用いて、80字以内で説明しなさい。
問二 本文全体について
筆者は、思春期のさまざまな悩みの奥には、**「他者の中で、私はどうやって私であり続けるのか。」**という共通した問いがあると述べています。
なぜ「自分」であろうとすることが、思春期の悩みにつながるのでしょうか。「他人本位」「自己本位」という言葉を用い、本文全体を踏まえて100字以内で説明しなさい。















