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【国語】小説的文章の読解②

次の文章を読んで最後の問いを考えてみよう。

透明な改札

 十月の教室には、空いている机がひとつあった。

 窓際の後ろから二番目。椅子は机の下にきちんと入れられていて、机の横には何も掛かっていない。

 黒板の右上に書かれた「県立高校入試まであと一五六日」という数字を見たあと、僕はいつも、その机を見てしまう。

 そこは、佐倉澪の席だった。

「悠真、進路希望調査、今日までだぞ」

 担任の菅野先生が僕の机を指で二度たたいた。

「あ、はい」

「お前、まだ第一志望、空欄だろ」

「今日、書きます」

「お母さんとは話したのか?」

「まあ」

 嘘だった。

 話してはいる。

 ただ、それを「話した」と呼んでいいのかはわからなかった。

 母は県立北高校を勧めている。市内でも進学校として知られていて、僕の成績なら十分狙えるらしい。

「大学の選択肢も広がるし、悠真なら行けるんだから」

 母はそう言う。

 担任も同じことを言う。

 塾の模試にも「北高A判定」と印刷されている。

 だから、北高と書けばいい。

 それだけのことなのに、僕は第一志望の欄を三日間空白にしていた。

 理由を聞かれても、うまく説明できない。

 僕には、行きたい高校がなかった。

 正確に言えば、北高に行きたくない理由もなかった。

 それが一番困るのだ。

     *

 澪とは家が三軒しか離れていない。

 保育園から一緒だった。

 小学生のころは、朝になると澪が僕の家のインターホンを押した。

「悠真、遅れるよ」

「今行く!」

 毎朝それを繰り返した。

 中学校に入ってからは、いつの間にか一緒に登校しなくなった。

 理由はない。

 僕には男子の友達ができ、澪には女子の友達ができた。それだけだ。

 廊下ですれ違えば話すし、テストの点数で競うこともあった。

「数学八十七」

「うそ。私八十三」

「勝った」

「四点で威張るな」

 そんな関係だった。

 その澪が学校に来なくなったのは、中学三年の五月だった。

 最初は風邪だと思っていた。

 一週間が二週間になった。

 一か月が過ぎた。

 クラスでは、だんだん澪の名前が出なくなった。

 誰かが「不登校らしいよ」と言った。

 別の誰かが、「高校どうするんだろ」と言った。

 その言葉を聞いたとき、僕はなぜか腹が立った。

 でも何も言わなかった。

     *

 その日の帰り、家の近くの小さな公園に澪がいた。

 ブランコに座って、スマートフォンを見ている。

「何してんの」

 声をかけると、澪が顔を上げた。

「見ればわかるでしょ。ブランコ」

「学校は」

「見ればわかるでしょ。行ってない」

 昔から、こういう言い方をする。

 僕は隣のブランコに座った。

「進路希望、出した?」

「学校行ってない人に聞く?」

「先生から郵送とか」

「来たよ」

「書いた?」

「通信」

 澪はすぐに答えた。

「通信制?」

「うん」

「そうなんだ」

「何、その顔」

「別に」

「『もったいない』って思ったでしょ」

「思ってない」

「悠真、嘘つくとき鼻触るよ」

 僕は鼻から手を離した。

 澪が笑った。

 久しぶりに見た気がした。

「お母さんにも言われた。せっかく成績悪くなかったのに、って」

「……悪くなかったどころか、俺より上だったじゃん」

「過去形にしないでよ」

「ごめん」

 風が吹いて、地面の落ち葉が滑った。

「なんで学校来ないの」

 聞いてから、まずかったと思った。

 でも澪は怒らなかった。

「わかんない」

「わかんない?」

「うん。最初は朝起きると気持ち悪くなって。制服着るところまではできるんだけど、玄関に行くと動けなくなった」

「いじめ?」

「違う」

「友達?」

「違う」

「じゃあ何」

 澪は少し黙った。

「それがわかれば、たぶん楽なんだけどね」

 ブランコの鎖が、きい、と鳴った。

「みんな理由を欲しがるんだよ」

「理由?」

「先生も、お母さんも、お父さんも。何かあったの、誰かに何かされたの、勉強が嫌なの、って」

「心配してるからじゃん」

「わかってる」

 澪は足元を見た。

「だから余計に困るの」

 その言葉の意味を、僕はすぐには理解できなかった。

     *

 澪の父親は銀行員で、県外の支店に単身赴任している。

 母親は看護師で、夜勤もある。

 僕の母と澪の母は仲がよく、小さいころは二つの家を行ったり来たりして育った。

 だから知っている。

 澪の家には、悪い人はいない。

 父親は帰省するとケーキを買ってくる。母親は忙しくても弁当を作る。

 それでも、人は学校へ行けなくなる。

 僕はそのことが少し怖かった。

 原因があれば、取り除けばいい。

 でも、原因がわからなければどうすればいいのだろう。

     *

「悠真は北高?」

 澪が聞いた。

「たぶん」

「行きたいの?」

「成績的に」

「聞いてない」

「大学とか考えたら」

「それも聞いてない」

 僕は少し腹が立った。

「じゃあ何だよ」

「悠真が行きたいのかって聞いてる」

「だから、行ったほうがいいんだよ」

「誰が言ったの?」

 答えようとして、言葉が止まった。

 母。

 先生。

 模試。

 塾。

 親戚。

 全部正しい。

 全部、僕のことを考えてくれている。

「みんな」

 僕が言うと、澪は笑った。

「じゃあ悠真は?」

 その言葉が妙に残った。

     *

 家に帰ると、母がダイニングテーブルに高校案内を広げていた。

「北高の説明会、十一月にもあるみたい。申し込んでおこうか」

「うん」

「制服も変わったんだって」

「へえ」

「国公立大学の合格者も多いし」

「うん」

 母の指がパンフレットの数字をなぞる。

 母は悪くない。

 父が家を出たのは、僕が小学四年のときだった。

 離婚してから、母は市役所の臨時職員として働きながら僕を育てた。今は正規職員になったが、帰宅はいつも遅い。

「悠真には、ちゃんと選べる人生にしてほしいの」

 以前、母が言ったことがある。

 母自身は家庭の事情で大学進学を諦めたらしい。

 だから僕に同じ思いをさせたくない。

 わかっている。

 わかっているからこそ、「北高には行きたくない」とは言えなかった。

 そもそも、本当に行きたくないのかもわからない。

 僕はパンフレットを閉じた。

「母さん」

「何?」

「もし俺が北高じゃないところ行くって言ったら、どうする?」

 母の手が止まった。

「どこ?」

「いや、例えば」

「理由によるかな」

「理由がなかったら?」

「理由がないのに、わざわざ選択肢を狭める必要はないでしょう」

 正しい。

 あまりにも正しくて、僕は何も言えなかった。

     *

 次の日、学校で進路希望調査を出した。

 第一志望には「県立北高校」と書いた。

 菅野先生はそれを見て、

「よし。悠真ならいける」

 と言った。

 その瞬間、胸の奥に小さな穴が開いた気がした。

 合格できそうな学校を書いた。

 母が喜ぶ学校を書いた。

 先生が安心する学校を書いた。

 なのに、自分が何を選んだのかだけが、よくわからなかった。

     *

 十一月の初め、澪からメッセージが来た。

『明日、学校行こうと思う』

 僕はしばらく画面を見ていた。

『マジ?』

『たぶん』

『迎え行こうか』

 送ってから、余計だったかと思った。

 少しして返信が来た。

『お願い』

 翌朝、七時四十分に澪の家の前へ行った。

 何年ぶりだろう。

 昔は毎朝、澪が僕を待っていた。

 今度は僕が待っている。

 玄関が開いた。

 制服姿の澪が出てきた。

「おはよ」

「おう」

「変?」

「何が」

「制服」

「同じだろ」

「五か月着てなかったから」

 僕たちは歩き始めた。

 学校が近づくにつれて、澪の歩幅が小さくなった。

 校門が見えたところで、止まった。

「無理かも」

 僕は何と言えばいいかわからなかった。

 頑張れ。

 大丈夫。

 せっかくここまで来たんだから。

 いくつかの言葉が浮かんだ。

 でも、どれも違う気がした。

「じゃあ、ここにいる?」

 澪が僕を見た。

「遅刻するよ」

「一日くらい」

「優等生が?」

「うるさい」

 澪が少し笑った。

 十分ほど、二人でガードレールに座った。

 登校する生徒たちが僕らの前を通り過ぎていった。

 何人かが澪を見た。

 澪はそのたびに下を向いた。

「みんな普通に行けるんだね」

 澪が言った。

「何が?」

「学校」

 校門には次々と生徒が吸い込まれていく。

「普通って何だろうね」

 僕は言った。

 自分でも驚いた。

 そんなことを考えたことはなかった。

 朝起きて、制服を着て、学校へ行く。

 高校へ進学する。

 できれば偏差値の高い高校へ行く。

 大学へ行く。

 就職する。

 僕はそれを、自分で選んできたのだろうか。

 それとも、最初から敷かれていた透明なレールの上を歩いていただけなのだろうか。

「悠真」

「ん?」

「私、学校嫌いじゃないよ」

「うん」

「友達も嫌いじゃない」

「うん」

「勉強も、嫌いじゃない」

「うん」

「でも、行けない」

 澪の声が震えた。

「それって、私がおかしいのかな」

 僕はすぐには答えなかった。

 以前の僕なら、「おかしくないよ」と言ったと思う。

 でも、それも僕が澪に与える答えなのかもしれないと思った。

「わかんない」

 僕は言った。

「でも、澪が決めることなんじゃない?」

「何を?」

「学校に行くかどうかじゃなくて」

 自分でも、まだ言葉になっていなかった。

「澪が、どう生きたいか」

 澪は黙っていた。

 やがて、小さく笑った。

「十五歳に重すぎない?」

「俺も今思った」

     *

 その日、澪は三時間目から教室に入った。

 翌日は来なかった。

 その次の日も来なかった。

 けれど金曜日には、保健室で一時間だけ過ごしたらしい。

 それを「前進」と呼んでいいのか、僕にはわからない。

 前進という言葉には、進むべき方向が最初から決まっているような感じがする。

 学校に戻ることが前で、戻れないことが後ろなのだろうか。

 通信制高校へ進むことは、全日制高校へ戻れなかった結果なのだろうか。

 そんなことを考えるようになった。

     *

 十二月。

 僕は進路希望調査を書き直した。

 第一志望は北高のままだった。

 結局、変えなかった。

 でも、一つだけ違っていた。

 今度は、自分で北高を選んだ。

 大学へ行きたい。

 まだ何を学びたいのかはわからない。

 だから、三年間でもう少し考えたい。

 母が勧めたからでも、先生が勧めたからでもない。

 考えた結果、同じ場所に戻ってきた。

 同じ「北高校」という四文字なのに、最初に書いたときとは違って見えた。

     *

 帰り道、澪が公園にいた。

「決めた?」

 僕が聞いた。

「通信」

「そっか」

「週三日通うコースもあるんだって」

「へえ」

「高校で勉強し直して、大学も行ってみたい」

「いいじゃん」

「『もったいない』って思わない?」

「何が?」

「普通の高校行ける成績だったのに」

 僕は少し考えた。

「普通って何だろうね」

「またそれ?」

「最近の俺のテーマだから」

 澪が笑った。

 しばらく沈黙した。

 夕方の公園には僕たちしかいなかった。

「悠真」

「ん?」

「私ね、学校行けなくなってから、ずっとみんなに置いていかれてると思ってた」

「うん」

「でも最近、ちょっと違う気がする」

「何が?」

「みんなが同じ方向に走ってるように見えただけなのかも」

 僕は返事をしなかった。

 澪の肩が、僕の肩に少し触れた。

 離れようかと思った。

 でも、やめた。

「悠真は?」

「何」

「北高、本当に行きたい?」

 僕は空を見た。

 十二月の空は暗くなるのが早い。

「うん」

 今度は、すぐに答えられた。

「行きたい」

「そっか」

 澪の肩がもう一度触れた。

「じゃあ、別々だね」

「高校はね」

「高校は?」

「家、三軒しか離れてないじゃん」

「そういう意味?」

「どういう意味だよ」

「別に」

 澪が立ち上がった。

 僕も立った。

 公園の出口で、道は左右に分かれている。

 右へ行けば僕の家で、左へ行けば澪の家だ。

 小学生のころ、僕たちはここまで同じ道を歩き、毎日ここで別れていた。

 それなのに、今日の道は昔より少し広く見えた。

 同じ学校へ行くことが、一緒にいることではない。

 違う道を選ぶことが、離れてしまうことでもない。

 たぶん僕たちはこれから、何度も別々のものを選ぶ。

 そのたびに、相手の選んだものを理解できないこともあるだろう。

 自分の選んだものが正しかったのか、わからなくなることもあるだろう。

 それでも、自分で選ぶしかない。

 そして、自分で選ぶということは、誰の言葉も聞かないことではないのだと思う。

 母の言葉を聞く。

 先生の言葉を聞く。

 澪の言葉を聞く。

 そのすべてを抱えて、最後に自分へ問い返す。

 僕は、どうしたいのか。

 そして同じように、自分とは違う答えを選んだ誰かに問いかける。

 君は、どうしたいのか。

「じゃあね」

 澪が左へ曲がった。

「また明日」

 僕が言うと、澪が振り返った。

「明日、学校行くかわかんないよ」

「学校じゃなくて」

 澪が一瞬、不思議そうな顔をした。

 それから笑った。

「そっか」

 僕たちは別々の方向へ歩き出した。

 十歩ほど歩いたところで、振り返った。

 澪も振り返っていた。

 目が合うと、どちらからともなく笑った。

 僕はまた前を向いた。

 道は二つに分かれている。

 そのどちらにも、誰かが引いた線は見えなかった。

著者:小野寺尭大

問い:「道は二つに分かれている。そのどちらにも、誰かが引いた線は見えなかった。」とあります。ここでいう「誰かが引いた線」とは何を表していますか。また、悠真が「線は見えなかった」と感じたことには、進路や澪に対する悠真の考え方が、物語の初めからどのように変化したことが表れていますか。物語全体を踏まえて、100字以内で説明しなさい。

子供心理・チャイルド心理資格取得講座卒業・修了証明 子供心理カウンセラー®資格資格認定証

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