次の文章を読んで最後の問いを考えてみよう。
透明な改札
十月の教室には、空いている机がひとつあった。
窓際の後ろから二番目。椅子は机の下にきちんと入れられていて、机の横には何も掛かっていない。
黒板の右上に書かれた「県立高校入試まであと一五六日」という数字を見たあと、僕はいつも、その机を見てしまう。
そこは、佐倉澪の席だった。
「悠真、進路希望調査、今日までだぞ」
担任の菅野先生が僕の机を指で二度たたいた。
「あ、はい」
「お前、まだ第一志望、空欄だろ」
「今日、書きます」
「お母さんとは話したのか?」
「まあ」
嘘だった。
話してはいる。
ただ、それを「話した」と呼んでいいのかはわからなかった。
母は県立北高校を勧めている。市内でも進学校として知られていて、僕の成績なら十分狙えるらしい。
「大学の選択肢も広がるし、悠真なら行けるんだから」
母はそう言う。
担任も同じことを言う。
塾の模試にも「北高A判定」と印刷されている。
だから、北高と書けばいい。
それだけのことなのに、僕は第一志望の欄を三日間空白にしていた。
理由を聞かれても、うまく説明できない。
僕には、行きたい高校がなかった。
正確に言えば、北高に行きたくない理由もなかった。
それが一番困るのだ。
*
澪とは家が三軒しか離れていない。
保育園から一緒だった。
小学生のころは、朝になると澪が僕の家のインターホンを押した。
「悠真、遅れるよ」
「今行く!」
毎朝それを繰り返した。
中学校に入ってからは、いつの間にか一緒に登校しなくなった。
理由はない。
僕には男子の友達ができ、澪には女子の友達ができた。それだけだ。
廊下ですれ違えば話すし、テストの点数で競うこともあった。
「数学八十七」
「うそ。私八十三」
「勝った」
「四点で威張るな」
そんな関係だった。
その澪が学校に来なくなったのは、中学三年の五月だった。
最初は風邪だと思っていた。
一週間が二週間になった。
一か月が過ぎた。
クラスでは、だんだん澪の名前が出なくなった。
誰かが「不登校らしいよ」と言った。
別の誰かが、「高校どうするんだろ」と言った。
その言葉を聞いたとき、僕はなぜか腹が立った。
でも何も言わなかった。
*
その日の帰り、家の近くの小さな公園に澪がいた。
ブランコに座って、スマートフォンを見ている。
「何してんの」
声をかけると、澪が顔を上げた。
「見ればわかるでしょ。ブランコ」
「学校は」
「見ればわかるでしょ。行ってない」
昔から、こういう言い方をする。
僕は隣のブランコに座った。
「進路希望、出した?」
「学校行ってない人に聞く?」
「先生から郵送とか」
「来たよ」
「書いた?」
「通信」
澪はすぐに答えた。
「通信制?」
「うん」
「そうなんだ」
「何、その顔」
「別に」
「『もったいない』って思ったでしょ」
「思ってない」
「悠真、嘘つくとき鼻触るよ」
僕は鼻から手を離した。
澪が笑った。
久しぶりに見た気がした。
「お母さんにも言われた。せっかく成績悪くなかったのに、って」
「……悪くなかったどころか、俺より上だったじゃん」
「過去形にしないでよ」
「ごめん」
風が吹いて、地面の落ち葉が滑った。
「なんで学校来ないの」
聞いてから、まずかったと思った。
でも澪は怒らなかった。
「わかんない」
「わかんない?」
「うん。最初は朝起きると気持ち悪くなって。制服着るところまではできるんだけど、玄関に行くと動けなくなった」
「いじめ?」
「違う」
「友達?」
「違う」
「じゃあ何」
澪は少し黙った。
「それがわかれば、たぶん楽なんだけどね」
ブランコの鎖が、きい、と鳴った。
「みんな理由を欲しがるんだよ」
「理由?」
「先生も、お母さんも、お父さんも。何かあったの、誰かに何かされたの、勉強が嫌なの、って」
「心配してるからじゃん」
「わかってる」
澪は足元を見た。
「だから余計に困るの」
その言葉の意味を、僕はすぐには理解できなかった。
*
澪の父親は銀行員で、県外の支店に単身赴任している。
母親は看護師で、夜勤もある。
僕の母と澪の母は仲がよく、小さいころは二つの家を行ったり来たりして育った。
だから知っている。
澪の家には、悪い人はいない。
父親は帰省するとケーキを買ってくる。母親は忙しくても弁当を作る。
それでも、人は学校へ行けなくなる。
僕はそのことが少し怖かった。
原因があれば、取り除けばいい。
でも、原因がわからなければどうすればいいのだろう。
*
「悠真は北高?」
澪が聞いた。
「たぶん」
「行きたいの?」
「成績的に」
「聞いてない」
「大学とか考えたら」
「それも聞いてない」
僕は少し腹が立った。
「じゃあ何だよ」
「悠真が行きたいのかって聞いてる」
「だから、行ったほうがいいんだよ」
「誰が言ったの?」
答えようとして、言葉が止まった。
母。
先生。
模試。
塾。
親戚。
全部正しい。
全部、僕のことを考えてくれている。
「みんな」
僕が言うと、澪は笑った。
「じゃあ悠真は?」
その言葉が妙に残った。
*
家に帰ると、母がダイニングテーブルに高校案内を広げていた。
「北高の説明会、十一月にもあるみたい。申し込んでおこうか」
「うん」
「制服も変わったんだって」
「へえ」
「国公立大学の合格者も多いし」
「うん」
母の指がパンフレットの数字をなぞる。
母は悪くない。
父が家を出たのは、僕が小学四年のときだった。
離婚してから、母は市役所の臨時職員として働きながら僕を育てた。今は正規職員になったが、帰宅はいつも遅い。
「悠真には、ちゃんと選べる人生にしてほしいの」
以前、母が言ったことがある。
母自身は家庭の事情で大学進学を諦めたらしい。
だから僕に同じ思いをさせたくない。
わかっている。
わかっているからこそ、「北高には行きたくない」とは言えなかった。
そもそも、本当に行きたくないのかもわからない。
僕はパンフレットを閉じた。
「母さん」
「何?」
「もし俺が北高じゃないところ行くって言ったら、どうする?」
母の手が止まった。
「どこ?」
「いや、例えば」
「理由によるかな」
「理由がなかったら?」
「理由がないのに、わざわざ選択肢を狭める必要はないでしょう」
正しい。
あまりにも正しくて、僕は何も言えなかった。
*
次の日、学校で進路希望調査を出した。
第一志望には「県立北高校」と書いた。
菅野先生はそれを見て、
「よし。悠真ならいける」
と言った。
その瞬間、胸の奥に小さな穴が開いた気がした。
合格できそうな学校を書いた。
母が喜ぶ学校を書いた。
先生が安心する学校を書いた。
なのに、自分が何を選んだのかだけが、よくわからなかった。
*
十一月の初め、澪からメッセージが来た。
『明日、学校行こうと思う』
僕はしばらく画面を見ていた。
『マジ?』
『たぶん』
『迎え行こうか』
送ってから、余計だったかと思った。
少しして返信が来た。
『お願い』
翌朝、七時四十分に澪の家の前へ行った。
何年ぶりだろう。
昔は毎朝、澪が僕を待っていた。
今度は僕が待っている。
玄関が開いた。
制服姿の澪が出てきた。
「おはよ」
「おう」
「変?」
「何が」
「制服」
「同じだろ」
「五か月着てなかったから」
僕たちは歩き始めた。
学校が近づくにつれて、澪の歩幅が小さくなった。
校門が見えたところで、止まった。
「無理かも」
僕は何と言えばいいかわからなかった。
頑張れ。
大丈夫。
せっかくここまで来たんだから。
いくつかの言葉が浮かんだ。
でも、どれも違う気がした。
「じゃあ、ここにいる?」
澪が僕を見た。
「遅刻するよ」
「一日くらい」
「優等生が?」
「うるさい」
澪が少し笑った。
十分ほど、二人でガードレールに座った。
登校する生徒たちが僕らの前を通り過ぎていった。
何人かが澪を見た。
澪はそのたびに下を向いた。
「みんな普通に行けるんだね」
澪が言った。
「何が?」
「学校」
校門には次々と生徒が吸い込まれていく。
「普通って何だろうね」
僕は言った。
自分でも驚いた。
そんなことを考えたことはなかった。
朝起きて、制服を着て、学校へ行く。
高校へ進学する。
できれば偏差値の高い高校へ行く。
大学へ行く。
就職する。
僕はそれを、自分で選んできたのだろうか。
それとも、最初から敷かれていた透明なレールの上を歩いていただけなのだろうか。
「悠真」
「ん?」
「私、学校嫌いじゃないよ」
「うん」
「友達も嫌いじゃない」
「うん」
「勉強も、嫌いじゃない」
「うん」
「でも、行けない」
澪の声が震えた。
「それって、私がおかしいのかな」
僕はすぐには答えなかった。
以前の僕なら、「おかしくないよ」と言ったと思う。
でも、それも僕が澪に与える答えなのかもしれないと思った。
「わかんない」
僕は言った。
「でも、澪が決めることなんじゃない?」
「何を?」
「学校に行くかどうかじゃなくて」
自分でも、まだ言葉になっていなかった。
「澪が、どう生きたいか」
澪は黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「十五歳に重すぎない?」
「俺も今思った」
*
その日、澪は三時間目から教室に入った。
翌日は来なかった。
その次の日も来なかった。
けれど金曜日には、保健室で一時間だけ過ごしたらしい。
それを「前進」と呼んでいいのか、僕にはわからない。
前進という言葉には、進むべき方向が最初から決まっているような感じがする。
学校に戻ることが前で、戻れないことが後ろなのだろうか。
通信制高校へ進むことは、全日制高校へ戻れなかった結果なのだろうか。
そんなことを考えるようになった。
*
十二月。
僕は進路希望調査を書き直した。
第一志望は北高のままだった。
結局、変えなかった。
でも、一つだけ違っていた。
今度は、自分で北高を選んだ。
大学へ行きたい。
まだ何を学びたいのかはわからない。
だから、三年間でもう少し考えたい。
母が勧めたからでも、先生が勧めたからでもない。
考えた結果、同じ場所に戻ってきた。
同じ「北高校」という四文字なのに、最初に書いたときとは違って見えた。
*
帰り道、澪が公園にいた。
「決めた?」
僕が聞いた。
「通信」
「そっか」
「週三日通うコースもあるんだって」
「へえ」
「高校で勉強し直して、大学も行ってみたい」
「いいじゃん」
「『もったいない』って思わない?」
「何が?」
「普通の高校行ける成績だったのに」
僕は少し考えた。
「普通って何だろうね」
「またそれ?」
「最近の俺のテーマだから」
澪が笑った。
しばらく沈黙した。
夕方の公園には僕たちしかいなかった。
「悠真」
「ん?」
「私ね、学校行けなくなってから、ずっとみんなに置いていかれてると思ってた」
「うん」
「でも最近、ちょっと違う気がする」
「何が?」
「みんなが同じ方向に走ってるように見えただけなのかも」
僕は返事をしなかった。
澪の肩が、僕の肩に少し触れた。
離れようかと思った。
でも、やめた。
「悠真は?」
「何」
「北高、本当に行きたい?」
僕は空を見た。
十二月の空は暗くなるのが早い。
「うん」
今度は、すぐに答えられた。
「行きたい」
「そっか」
澪の肩がもう一度触れた。
「じゃあ、別々だね」
「高校はね」
「高校は?」
「家、三軒しか離れてないじゃん」
「そういう意味?」
「どういう意味だよ」
「別に」
澪が立ち上がった。
僕も立った。
公園の出口で、道は左右に分かれている。
右へ行けば僕の家で、左へ行けば澪の家だ。
小学生のころ、僕たちはここまで同じ道を歩き、毎日ここで別れていた。
それなのに、今日の道は昔より少し広く見えた。
同じ学校へ行くことが、一緒にいることではない。
違う道を選ぶことが、離れてしまうことでもない。
たぶん僕たちはこれから、何度も別々のものを選ぶ。
そのたびに、相手の選んだものを理解できないこともあるだろう。
自分の選んだものが正しかったのか、わからなくなることもあるだろう。
それでも、自分で選ぶしかない。
そして、自分で選ぶということは、誰の言葉も聞かないことではないのだと思う。
母の言葉を聞く。
先生の言葉を聞く。
澪の言葉を聞く。
そのすべてを抱えて、最後に自分へ問い返す。
僕は、どうしたいのか。
そして同じように、自分とは違う答えを選んだ誰かに問いかける。
君は、どうしたいのか。
「じゃあね」
澪が左へ曲がった。
「また明日」
僕が言うと、澪が振り返った。
「明日、学校行くかわかんないよ」
「学校じゃなくて」
澪が一瞬、不思議そうな顔をした。
それから笑った。
「そっか」
僕たちは別々の方向へ歩き出した。
十歩ほど歩いたところで、振り返った。
澪も振り返っていた。
目が合うと、どちらからともなく笑った。
僕はまた前を向いた。
道は二つに分かれている。
そのどちらにも、誰かが引いた線は見えなかった。
著者:小野寺尭大
問い:「道は二つに分かれている。そのどちらにも、誰かが引いた線は見えなかった。」とあります。ここでいう「誰かが引いた線」とは何を表していますか。また、悠真が「線は見えなかった」と感じたことには、進路や澪に対する悠真の考え方が、物語の初めからどのように変化したことが表れていますか。物語全体を踏まえて、100字以内で説明しなさい。















