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【国語】小説的文章の読解

『裸の問い』

次の文章を読んで最後の問いを考えてみよう。

一 黒いノート

 僕は、死んだ人のための記事を書こうとしていた。
 けれどその人が死んだと言った人間は、一人もいなかったのだ。

 十二月の図書室は、暖房の音ばかり大きかった。

 北陵高校の三年生は、冬になると音を立てなくなる。椅子を引く音にも、咳にも、誰かの合格を妨げる可能性がある。僕もその規則に従い、いちばん奥の机で英語の長文を読んでいた。

 黒いノートに気づいたのは、消しゴムを落としたときだった。
 隣の椅子に置いてあった。表紙の角は白く剥げ、背には細い亀裂が入っている。持ち主の名前はない。
 開くと、最初のページには一行だけ書かれていた。

 人は、誰にも見られていないとき、何者になるのか。

 僕は顔を上げた。
 窓には、十八歳の僕が映っていた。榊悠真。学年順位十一位。第一志望、国立大学医学部。志望理由は地域医療への貢献。願書にはまだ書いていないが、その文章になることは決まっていた。

「誰も見てないよ」

 背後から声がした。

 水城玲奈が、返却する本を三冊抱えて立っていた。同じクラスで、僕より一か月早く十八歳になった。夏からずっと美術室に通い、模試の日には鉛筆の削り方だけを褒められていた。

「落とし物だと思う」

「中まで見たんだ」

 僕はノートを閉じた。彼女は責めるでもなく、表紙の傷に目を落とした。

「答え、出た?」

「見られてなくても、人は同じ人じゃないの」

「じゃあ、どうして今、いいこと言おうとしたの」

 玲奈は三冊の本を返却台に置き、そのまま出ていった。

 耳が熱かった。

 落とし物の箱へ入れるつもりでノートを持ち上げたとき、裏表紙の内側に、かすれた名前が見えた。
 朝倉透子。
 その下に、五年前の日付があった。

 翌日の昼休み、僕は友人の安西にその名前を尋ねた。

「旧校舎の人?」

「何それ」

「ほら、美術教師と問題になって、卒業する前に消えた先輩。うちの姉ちゃんの一個上」

 安西は弁当の蓋についた米を剥がした。

「記録も写真も全部消されたって。いなかったことにされた人」

「問題って」

「そこまでは知らない。訊くなって言われたし」

 知らない話をするときの安西は、普段より少しだけ楽しそうだった。

 僕は笑わなかった。その代わり、午後の授業中も名前を何度も検索した。
 何も見つからなかった。
 見つからないことが、噂の正しさを証明するように感じられた。

 放課後、ノートの続きを読んだ。
 途中には買い物のメモや、犬らしい落書きがあった。「自由」と書かれた見出しの下で、玉ねぎが二本線で消されていた。
 後ろのページに、小さな字でこうあった。

 絵の裏を見てください。
 表にあるものだけが、私ではありません。

 その先の最後の一枚は切り取られていた。
 切り口は真っすぐだったが、下の端だけが三角に裂けている。残った紙の付け根に、緑色の絵の具がこびりついていた。

 僕はそこを指でこすった。
 古い色は、指にはつかなかった。

二 描く人

 美術室には、りんごの匂いがした。
 正確には、描かれるために放置され、食べ頃を過ぎたりんごの匂いだった。

 玲奈は窓際にいた。古いシャツを制服の上に羽織り、袖を肘までまくっている。僕が入ると、筆を持ったまま振り返った。

「来ると思った」

「どうして」

「顔に書いてあったから」

 イーゼルには、一人の人物が椅子に腰かけた絵があった。服は描かれていなかった。背景は薄い灰色で、顔だけがまだ白かった。

 僕は視線を筆洗へ逃がした。

「自分を描いてるの」

「そう」

「ここで?」

「家で描いた下絵から。鍵のかからない教室で、そんなことしない」

 玲奈は笑い、絵の前に作業用の布を掛けた。

 僕が気まずくなるたび、彼女のほうが平気そうに見えた。あとになって知るのだが、そう見えることと、平気であることは別だった。

「なぜ服を描かないの」

「制服を描くと、最初に高校生ってわかるでしょう。そこから見られるのを、一回やめてみたかった」

「裸だと、別の見方をされるんじゃない」

「うん。だから困ってる」

 その答えは、少し意外だった。

 玲奈は椅子を足で寄せ、僕に座るよう促した。

「私、どんな絵を描いたら、いちばん私になるのかわからないんだ」

 ノートを差し出すと、彼女は表紙を見ただけで、机の上に置いた。

「朝倉透子って知ってる?」

「少し」

「五年前のことを調べたい」

「どうして」

「誰かが、なかったことにされたなら」

 言いかけて、口を閉じた。続きを言えば立派な文章になる。彼女にもそれがわかったらしく、何も助けてくれなかった。

「気になるんだ」

 ようやく言うと、玲奈は頷いた。

「そのくらいから始めて」

 美術準備室から、木島先生が出てきた。
 五十歳くらいの、いつも爪の脇に絵の具の残っている人だった。僕たちを見るより先に、黒いノートを見た。

「それ、どこで手に入れた」

 声が変わった。

「図書室です」

「私に預けなさい」

 先生の手が伸び、玲奈がノートを引いた。

「返したばかりでしょう」

 沈黙が落ちた。

 先生は玲奈を見た。玲奈も先生を見ていた。僕だけが、二人の知っていることを知らなかった。

「水城。約束が違う」

「隠しておく約束はしていません」

「君が決めていいことではない」

「先生もです」

 木島先生は口元を拭った。何かを言い直そうとして、結局、準備室の扉を閉めた。

 玲奈は机の上に両手を置いていた。右の小指だけが小さく震えていた。

「ノート、君が置いたの」

「うん」

「僕に読ませるために?」

「榊君、広報委員でしょう。古い学校新聞も読めるし、先生たちも話を聞く」

「便利だったんだ」

 玲奈は言い返さなかった。
 それがいっそう腹立たしかった。

 帰ろうとした僕を、彼女は追いかけなかった。ただ、椅子から立ち上がって言った。

「使った。ごめん。でも、読んでほしいと思ったのも本当」

 廊下へ出ても、りんごの匂いが鼻の奥に残っていた。

三 白い四角

 調べるのをやめなかったのは、正義感のためではなかった。
 玲奈に何を見抜かれたのか、確かめたかった。

 広報室の古い棚には、学校新聞が年度別に綴じてあった。五年前の十月号には、文化祭の記事が載っていた。

 美術部の展示を写した写真。その中央に、白い四角があった。

 汚れでも反射でもなかった。印刷される前に、写真の一部が塗りつぶされていた。
 四角の下には、小さな題名が残っていた。
 朝倉透子『窓』。

 僕は指を止めた。
 全部消されたという噂は、すでに間違っていた。名前はここにある。誰でも開ける棚の中に。

 そのとき、書庫の整理をしていた司書の佐伯さんが声をかけてきた。

「それ、印刷し直した号ね」

「前のものもありますか」

 佐伯さんは少し迷い、机の引き出しから薄い封筒を出した。

「校正刷り。処分するように言われたけど、修正の記録までなくすのは違うと思って」

 封筒の中では、白い四角の場所に一枚の自画像があった。

 玲奈の絵とは違った。描かれた人は、見る側に背を向けていた。前方の窓は閉じ、窓ガラスには部屋だけが映っている。
 作品の横の札には、「三年・十八歳」と、作者自身による説明が添えられていた。
 誰かに向けた絵というより、誰かがいなくなるのを待っている絵に見えた。

「これが問題になったんですか」

「絵が、というより」

 佐伯さんは机に両手を置いた。

「写真の一部分だけが外に出たの。説明の札を切り落としてね。先生が生徒を描いた、と」

「自画像なのに」

「そう。けれど訂正より、最初の話のほうが広がった」

 僕は新聞を見た。白くすれば、なかったことになる。けれど白い四角は、ほかのどんな色より目立っていた。

「朝倉さんは、そのあとどうしたんですか」

「二月に退学した。通信制へ移ったと聞いたわ」

「転校……」

「その先は、本人から聞いたことしか話せない」

 佐伯さんは封筒を片づけた。

 僕は、別の質問を飲み込んだ。
 その人は生きていますか。
 どうしてそんな質問が口元まで出かかったのか、自分でもわからなかった。

 帰り際、僕は廊下の突き当たりにある絵を見た。

 灰色の窓を描いた、地味な絵だった。入学した日からそこにあり、三年間、一度も足を止めたことがなかった。
 札には「習作」とだけある。

 校正刷りの自画像と、窓の形が同じだった。右上の桟だけ、少し傾いている。

 近づくと、灰色の下から、細い曲線が透けて見えた。

 誰もいない部屋ではなかった。
 誰かを、塗りつぶした部屋だった。

四 窓の下

「これを塗ったのは、先生ですか」

 翌日、僕は木島先生を絵の前へ呼んだ。
 先生は持っていたプリントを脇に挟み、眼鏡を外した。

「違う」

「じゃあ誰が」

「朝倉さん自身だ」

 用意してきた言葉が、ひとつ残らず使えなくなった。

「消せって言われたんですか」

「私は言っていない」

「ほかの先生が?」

「榊。君はもう、どういう話にするか決めているだろう」

 僕は口を閉じた。

 廊下の向こうで、誰かが上履きを鳴らして走っていた。

「では、なぜ名前がないんですか」

 先生は札を見た。

「それは、私が外した」

「守るためですか」

「そう説明した」

 窓の外に向けて、先生は眼鏡を拭いた。曇ってなどいなかった。

「でも、そのとき私は、私自身も守っていた」

 五年前、写真が広まったあと、学校は作品の展示を取りやめた。木島先生が訂正文を出そうとすると、校長は、騒ぎを大きくするだけだと止めたという。

「それで従ったんですか」

「従った」

「本人は、何て」

「自分で描いたと言わせてほしいと」

 先生は眼鏡をかけ直した。

「私は、もう少し待とうと言った」

 その一言なら、僕にも言えたと思った。正しい順番を待とう。大人に任せよう。落ち着いてから考えよう。僕の得意な言葉ばかりだった。

「ノートを隠していたのも?」

「彼女が置いていった。返せずにいるうち、私も開けなくなった。去年の秋、家族から連絡が来て、ようやく返したんだ」

 先生の指が、額縁の下へ動いた。

「これは、退学の日に彼女が持ってきた。保管してほしいと言われた。だが私は名前を外して、こんな場所に掛けた。倉庫へ入れるよりましだと考えてね」

「朝倉さんには、断ったんですか」

 先生は答えなかった。
 答えのない時間にも、種類があるのだと、そのとき初めて知った。

 玲奈は旧校舎の階段に座っていた。
 夕日はとっくに消え、非常灯だけが緑色だった。僕は一段空けて座った。

「先生から聞いた」

「どこまで」

「自分で塗ったんだって」

 玲奈は膝の上で手を組んだ。

「私は、ずっと先生がやったんだと思ってた」

「家族なの」

 彼女は頷いた。

「姉。両親が離婚する前は、私も朝倉だった」

 僕は、彼女の絵に白いまま残っていた顔を思い出した。

「お姉さんと同じ絵を描いてるの?」

「同じには描けないよ」

「でも、同じことをしようとしてる」

 玲奈は少し考えてから言った。

「そうかもしれない。今なら、私なら大丈夫だって、見せたかったのかも」

 非常灯が一度、低く唸った。

「それ、誰に見せたいの」

 彼女は僕を見た。
 いつも先に答えを知っているように見えた目が、今は、行く先を失っていた。

「わかんない」

 それだけ言って、玲奈は顔を膝に伏せた。

五 いい話

 共通テストが終わると、母は僕の自己採点表を冷蔵庫に貼った。
 僕は翌朝、それを外した。

「どうしたの。よくできてるじゃない」

「毎朝、見たくないから」

 母は一瞬だけ傷ついた顔をして、それから「わかった」と言った。

 もっと大きな争いになると思っていた。拍子抜けするほど簡単だった。
 けれど医学部を受ける理由は、まだ訊けなかった。両親にではなく、自分に。

 学校へ来る三年生が少なくなっても、玲奈は美術室にいた。
 僕は二次試験の勉強の合間に、学校新聞の卒業号の原稿を書いた。

 見出しは「消された少女」だった。
 書き出しはうまくできたと思った。

 五年前、この学校には一人の少女がいた。自分を表現しようとした彼女の声は、大人たちの都合によって奪われた。

 玲奈に読ませると、彼女は二行目で紙を伏せた。

「この少女って、誰」

「お姉さんだよ」

「姉は二十三歳だけど」

 僕は彼女を見た。
 玲奈は、僕の表情を見て眉を寄せた。

「榊君、もしかして」

 僕は何も言えなかった。

「死んでると思った?」

 廊下のストーブが、かちりと鳴った。

「誰も、そんなこと言ってない」

「でも、消えたって」

「この学校からでしょう」

 窓の外で、融けかけた雪が庇から落ちた。

 僕は自分が調べたものを思い返した。新聞。作品。教師の証言。どこにも、死んだとは書いていなかった。佐伯さんは、通信制へ移ったとさえ言った。

 生きているかもしれない人を、僕は、物語を完成させるために死なせていた。

「どうして教えてくれなかったの」

 責める声が出たことに、自分で驚いた。
 玲奈の顔が硬くなった。

「姉の暮らしを、勝手に話せなかった」

「ノートは勝手に読ませたのに?」

 今度は彼女が黙った。

 僕たちはしばらく、互いの悪いところがよく見える距離に座っていた。

「それは、私が悪い」

 玲奈が言った。

「姉が書いたことなら、本当の姉をわかってもらえると思った。でも、姉に訊いてない。私も」

 僕は原稿を裏返した。白い面にも、文字の跡が透けていた。

「お姉さんに、話を聞けるかな」

「何のために?」

 すぐには答えられなかった。

「記事にしていいかも含めて、聞きたい」

 玲奈はスマートフォンを出したが、すぐには触らなかった。

「嫌だって言われたら」

「書かない」

「そこに、一番大事な答えがあっても?」

「書かない」

 二度目は、少しだけ本当に近づいた気がした。

 二月の中旬、玲奈と駅まで歩いた。
 彼女は美大への進学が決まっていた。僕の二次試験は十日後だった。

「医学部、受けるんだ」

「うん。今すぐ違う自分になる理由も、うまく言えない」

「うまく言わなくてもいいのに」

 彼女はそう言って、僕の袖についた白い糸を取った。
 その仕草が不意に近くて、僕は立ち止まった。

「玲奈」

 初めて名字を外した。
 彼女が振り返る。僕は手を出しかけて、止めた。

「手、つないでもいい?」

 彼女は、何も持っていないほうの手を差し出した。

「冷たいよ」

 本当に冷たかった。
 信号が二度変わるまで、僕たちは渡らなかった。何か言えば、今の気持ちに名前がついて、それだけになってしまいそうだった。

六 朝倉透子

 透子さんとの待ち合わせは、僕の二次試験の翌日だった。
 駅前の喫茶店に、彼女は七分遅れて来た。

「ごめん。店で、食洗機が壊れて」

 灰色の上着を脱ぎ、椅子の背に掛ける。玲奈によく似ていたが、話すときの間が違った。玲奈が言葉を選ぶところで、彼女は言い終えてから考えるようだった。

「あ、私、パン屋で働いてるんです」

 僕が知っているはずのないことを、普通に教えてくれた。
 悲劇から現れた人には見えなかった。
 そう思った自分を、僕はまた恥じた。

「ノート、勝手に読んですみませんでした」

「玲奈から聞いた。あれは、二人に怒っていいところだよね」

「うん」

 玲奈が答えた。
 透子さんは水を飲み、僕のほうを見た。

「謝ってくれてありがとう。今日は、話せることだけ話すね」

 彼女が自画像を描いたのは、十八歳の秋だった。

「写真だと、いつも変な顔をしてたの。可愛く写りたいと思ってる顔。それが嫌で、違うものを描いてみたかった」

「それで服を描かなかったんですか」

「うん。でも、すごい作品だって思われたい気持ちもあった。全部、混ざってた」

 展示してよいか、木島先生は本人に確認した。彼女は承諾した。ところが学校の広報用写真が出たあと、絵の部分だけを切り取った画像が広まった。

 誰が最初に説明を変えたのかは、今もわからない。

 教師との関係をからかう人もいれば、心配するふりで確かめに来る人もいた。

「否定すればするほど、詳しく聞いてもいいと思われた。そうじゃないなら、どうして描いたのって」

 彼女は砂糖の袋を一本取り、封を切らずに置いた。

「学校は、誤解される表現を控えようと言った。私、描いた理由を説明するために、絵を描いたわけじゃなかったんだけど」

「どうして自分で塗ったんですか」

 僕が訊くと、彼女は窓の外を見た。

「その絵を見ると、もう、あの人たちが言ったことしか思い出せなかったから」

 白いカップの縁に、彼女の指が触れていた。

「自分で消したかった。描いたのも、消したのも、私の手だってわかりたかった」

「なのに、学校へ?」

「家には置けなかった。でも、捨てるのも嫌だった。矛盾してるでしょう」

 彼女はそこで初めて笑った。

 木島先生なら捨てないと思ったのだという。助けてくれなかったことと、全部を信じられなくなることは、同じではなかった。

「あれ、まだあるの?」

「廊下に掛かっています」

「廊下」

 彼女は驚き、それから、困ったように息を吐いた。

「預けたのに、飾っちゃったんだ」

 誰もいない絵なら、もう傷つく人もいない。先生はそう考えたのかもしれない。その考えの中に、描いた人だけが入っていなかった。

「返してもらう?」

 玲奈が訊いた。

「そうだね。そろそろ、置く場所をつくろうかな」

 透子さんは携帯電話を取り出し、何かを短く打った。

 僕は取材用に用意してきた質問を、机の下で二つ消した。
 最後の問いは、「今は幸せですか」だった。
 それも、消した。

 帰るとき、透子さんは僕の持っていたノートを一度開いた。

「これ、懐かしい。うちにいた猫」

「犬じゃないんですか」

「ひどいな」

 玲奈が噴き出した。
 透子さんは少しむっとして、猫の耳を指でなぞった。

 僕はそのページを、初めてちゃんと見た気がした。

七 最後のページ

 卒業式の前日、木島先生から美術室へ来るように言われた。
 机の上に、廊下から外された『窓』があった。

「朝倉さんに返す。いや、水城さんだね、今は」

 先生は、古い額縁の埃を柔らかい刷毛で払っていた。

 玲奈は絵を見下ろした。灰色の下には、近づかなければわからない程度に、消された線が残っていた。

「全部は、消さなかったんですね」

 先生は頷いた。

「彼女がそこまでにしたんだ」

 僕はノートを開き、終わり近くの文章をもう一度読んだ。

 絵の裏を見てください。
 表にあるものだけが、私ではありません。

 格言のような言葉だと思っていた。しかし、ただの具体的な頼みだったとしたら。

「裏を見たことはありますか」

 先生は首を横に振った。

「額ごと預かった。外してはいない」

 絵を裏返すと、茶色い板を留める金具が六つあった。一か所だけ、金具に緑色の絵の具がついていた。
 僕はノートの切れ端を見た。
 同じ色だった。

「最後のページ、ここにあるのかもしれない」

 玲奈が金具に手を掛け、止めた。
 僕たちは顔を見合わせた。

「訊こうか」

 僕が言うと、彼女は頷いた。

 透子さんの返事を待つ間、木島先生は梱包用の段ボールを取りにいった。

 校庭では、明日のためにパイプ椅子が運ばれていた。砂を踏む音が聞こえる。玲奈の絵には、まだ布が掛かっていた。

「完成した?」

「うん」

「見てもいい?」

 玲奈は布を取った。
 絵の中の彼女は、色のついたシャツを羽織っていた。今、ここで着ている、絵の具だらけのシャツだった。顔は思ったより幼く、口元は何か言いかけて曲がっていた。

「服、描いたんだ」

「描いてみたら、こっちのほうがよかった」

 その簡単な理由が、僕には嬉しかった。

「お姉さんには見せる?」

「見せたい。でも先に、私が見終わってから」

 彼女は布を畳んだ。

「榊君が来ると、平気なふりしてた」

「最初から?」

「最初、特に。絵を変に思われたらどうしようって、ずっと考えてた」

 僕は筆洗を見た。初めて来た日、目を逸らした先にあったものだった。

「変に思った」

「知ってる」

「でも、また来たかった。ノートがなくても」

 玲奈は畳んだ布の角をそろえた。そろったあとも、しばらく指で押さえていた。

 スマートフォンが震えた。
 透子さんからだった。

「見てもいいよ。ただし勝手に発表しないこと。昔の私は、何でも人に見せたかったわけじゃないので」

 最後に、小さな猫の絵文字がついていた。

 木島先生が戻り、額の金具を起こした。
 裏板の内側に、二つ折りの紙が挟まっていた。

 紙は少し波打っていた。開くと、下の端が三角に欠けている。ノートに残った切れ端へ重ねると、緑色の染みが、一つのいびつな丸になった。

 僕は息を吸った。
 教師を告発する言葉でも、噂を否定する証言でもなかった。

 君は、誰にも望まれなくても、自分を愛せるか。

 その下は、白かった。

 三人とも、何も言わなかった。

 僕は、五年前の彼女がこれを書いているところを想像しかけた。けれど、その顔も、部屋も、僕は知らなかった。泣いていたのか、腹を立てていたのか。夕食に呼ばれて、途中で筆を置いただけかもしれない。

 知らないことを、知らないままにしておく。
 たったそれだけのことに、力が要った。

「答え、書いてないね」

 玲奈が言った。

「うん」

 自分なら何と書くか考えた。愛せる、と書けば、強い人になれる気がした。愛せない、と書けば、正直な人になれる気がした。
 どちらも、人からどう見えるかを考えていた。

 僕は紙を折り直した。

「返そう」

 玲奈が、ノートの最後に紙を挟んだ。

 木島先生は外していた古い札を引き出しから出した。朝倉透子『窓』。捨てずに取ってあったのだ。

「これも、返してください」

 先生は玲奈に頭を下げた。

「それと、謝りたいと伝えてほしい。私から直接連絡してもいいか、と」

 玲奈はすぐには頷かなかった。

「訊いてみます」

 先生は、はい、と答えた。

八 名前を呼ぶ

 卒業式の朝、僕は最後の学校新聞を配った。
 「消された少女」という記事は載せなかった。

 代わりに、広報委員としての短い挨拶を書いた。三年間ありがとうございました、という、ごく普通の文章だった。知らないことが多すぎた。普通の挨拶しか書けない自分を、今度は急いで埋め合わせなかった。

 式が終わると、教室は急にうるさくなった。
 受験が終わった者も、まだ残っている者も、机を寄せて写真を撮った。安西が僕の肩に腕を回し、変な顔をするように言った。
 どうすればいいかわからず、僕は半端に口を開けた。

「お前、顔にまで採点基準あるのかよ」

 僕は笑った。撮られた写真では、本当に変な顔をしていた。
 消してくれとは言わなかった。

 靴箱で、玲奈が待っていた。
 僕たちは絵の入った箱を二人で運んだ。駅から来る透子さんに渡すことになっていた。
 箱は持ちにくかった。歩幅が合わず、何度も角が制服にぶつかった。

「そっち、もう少し上げて」

「上げてる」

「上がってない」

 途中で休むと、段ボールの持ち手が指に赤い跡をつけていた。
 玲奈が僕の手を見て笑った。

「一人で持つって言わなくてよかったね」

「言おうとした」

「知ってる」

 校門の外では、保護者たちが花束を抱えていた。僕の母は遠くから手を振り、写真はあとでいいから、と口の形で伝えてきた。
 僕は頷いた。

 三月の半ば、透子さんから短いメールが来た。
 木島先生と会ったこと。絵は自分の部屋に置いたこと。そして、学校に残す記録について考えたこと。

「私が描いた自画像だったことは、ちゃんと残してほしいです。あとのことを全部わかってもらうのは、今は、いったんやめます」

 追伸には、最後の一枚についても書いてあった。

「紙を切ったのは私です。絵を塗り直した夜、あの問いだけは捨てられなかった。みんなに読まれるのは嫌で、でも誰かには見つけてほしくて、裏に入れました。面倒くさいね、昔の私」

 僕にも覚えがあった。

 僕は、その面倒くささを消さずに覚えていたいと思った。人にわかってもらえるように整えた途端、こぼれ落ちてしまうものがある。

 本人が確かめた訂正の文面を、学校は古い新聞の保存ファイルへ添えた。公開用の写真にも、修正があったことを示す説明が加わった。

 遅すぎると思った。
 それでも、遅いことと、しなくていいことは違うと思った。
 記事を書く話は、まだ約束していない。

 医学部には合格した。
 父は電話口で、僕が話し終える前に喜んだ。

「それでさ」

 僕は、父の声が落ち着くのを待った。

「医者になるのが本当に自分の希望か、まだ、よくわかってないんだ」

 電話の向こうが静かになった。

「合格したのに?」

「うん。合格したけど」

 しばらくして、父は、今度ちゃんと話そうと言った。
 その「今度」を、なかったことにはさせないつもりだった。

 玲奈が東京へ出る前日、僕たちはあの喫茶店で会った。
 彼女は窓際に座り、鞄から新しいスケッチブックを出した。

「離れたら、どうなると思う?」

「わからない」

「そこは、何か言ってよ」

 彼女は笑ったが、指は紙の端を折りかけていた。
 僕はその手に自分の手を重ねた。

「会いたいと思う。会えるようにしたい」

「うん」

 それ以上の約束を、彼女は要求しなかった。

 透子さんのノートは、もう僕の手元にはなかった。最後の問いだけが、ときどき思い出したように胸の中で開いた。

 まだ答えは出ていない。

 ただ、誰にも望まれない、という言葉を思い浮かべるとき、その「誰にも」を決めているのは誰なのか、以前より慎重に考えるようになった。

 玲奈が白いページに鉛筆を走らせた。
 僕は窓に映る自分を見た。十八歳。春から大学生。医学部。そうした言葉を全部並べても、今、向かいの人と別れたくない理由には、少しも届かなかった。

「悠真」

 顔を上げた。

「動かないで。今の顔、描きたい」

 僕は姿勢を直しかけて、やめた。

 玲奈の鉛筆が、紙の上を動いていた。

参考文献:裸の問い(生成AIにより作成)

問:物語の最後にある「僕は姿勢を直しかけて、やめた。」という行動には、悠真のどのような変化が表れているか。物語全体を踏まえ、初めの頃の悠真の考え方との違いがわかるように、100字以内で説明しなさい。

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