『裸の問い』
次の文章を読んで最後の問いを考えてみよう。
一 黒いノート
僕は、死んだ人のための記事を書こうとしていた。
けれどその人が死んだと言った人間は、一人もいなかったのだ。
十二月の図書室は、暖房の音ばかり大きかった。
北陵高校の三年生は、冬になると音を立てなくなる。椅子を引く音にも、咳にも、誰かの合格を妨げる可能性がある。僕もその規則に従い、いちばん奥の机で英語の長文を読んでいた。
黒いノートに気づいたのは、消しゴムを落としたときだった。
隣の椅子に置いてあった。表紙の角は白く剥げ、背には細い亀裂が入っている。持ち主の名前はない。
開くと、最初のページには一行だけ書かれていた。
人は、誰にも見られていないとき、何者になるのか。
僕は顔を上げた。
窓には、十八歳の僕が映っていた。榊悠真。学年順位十一位。第一志望、国立大学医学部。志望理由は地域医療への貢献。願書にはまだ書いていないが、その文章になることは決まっていた。
「誰も見てないよ」
背後から声がした。
水城玲奈が、返却する本を三冊抱えて立っていた。同じクラスで、僕より一か月早く十八歳になった。夏からずっと美術室に通い、模試の日には鉛筆の削り方だけを褒められていた。
「落とし物だと思う」
「中まで見たんだ」
僕はノートを閉じた。彼女は責めるでもなく、表紙の傷に目を落とした。
「答え、出た?」
「見られてなくても、人は同じ人じゃないの」
「じゃあ、どうして今、いいこと言おうとしたの」
玲奈は三冊の本を返却台に置き、そのまま出ていった。
耳が熱かった。
落とし物の箱へ入れるつもりでノートを持ち上げたとき、裏表紙の内側に、かすれた名前が見えた。
朝倉透子。
その下に、五年前の日付があった。
翌日の昼休み、僕は友人の安西にその名前を尋ねた。
「旧校舎の人?」
「何それ」
「ほら、美術教師と問題になって、卒業する前に消えた先輩。うちの姉ちゃんの一個上」
安西は弁当の蓋についた米を剥がした。
「記録も写真も全部消されたって。いなかったことにされた人」
「問題って」
「そこまでは知らない。訊くなって言われたし」
知らない話をするときの安西は、普段より少しだけ楽しそうだった。
僕は笑わなかった。その代わり、午後の授業中も名前を何度も検索した。
何も見つからなかった。
見つからないことが、噂の正しさを証明するように感じられた。
放課後、ノートの続きを読んだ。
途中には買い物のメモや、犬らしい落書きがあった。「自由」と書かれた見出しの下で、玉ねぎが二本線で消されていた。
後ろのページに、小さな字でこうあった。
絵の裏を見てください。
表にあるものだけが、私ではありません。
その先の最後の一枚は切り取られていた。
切り口は真っすぐだったが、下の端だけが三角に裂けている。残った紙の付け根に、緑色の絵の具がこびりついていた。
僕はそこを指でこすった。
古い色は、指にはつかなかった。
二 描く人
美術室には、りんごの匂いがした。
正確には、描かれるために放置され、食べ頃を過ぎたりんごの匂いだった。
玲奈は窓際にいた。古いシャツを制服の上に羽織り、袖を肘までまくっている。僕が入ると、筆を持ったまま振り返った。
「来ると思った」
「どうして」
「顔に書いてあったから」
イーゼルには、一人の人物が椅子に腰かけた絵があった。服は描かれていなかった。背景は薄い灰色で、顔だけがまだ白かった。
僕は視線を筆洗へ逃がした。
「自分を描いてるの」
「そう」
「ここで?」
「家で描いた下絵から。鍵のかからない教室で、そんなことしない」
玲奈は笑い、絵の前に作業用の布を掛けた。
僕が気まずくなるたび、彼女のほうが平気そうに見えた。あとになって知るのだが、そう見えることと、平気であることは別だった。
「なぜ服を描かないの」
「制服を描くと、最初に高校生ってわかるでしょう。そこから見られるのを、一回やめてみたかった」
「裸だと、別の見方をされるんじゃない」
「うん。だから困ってる」
その答えは、少し意外だった。
玲奈は椅子を足で寄せ、僕に座るよう促した。
「私、どんな絵を描いたら、いちばん私になるのかわからないんだ」
ノートを差し出すと、彼女は表紙を見ただけで、机の上に置いた。
「朝倉透子って知ってる?」
「少し」
「五年前のことを調べたい」
「どうして」
「誰かが、なかったことにされたなら」
言いかけて、口を閉じた。続きを言えば立派な文章になる。彼女にもそれがわかったらしく、何も助けてくれなかった。
「気になるんだ」
ようやく言うと、玲奈は頷いた。
「そのくらいから始めて」
美術準備室から、木島先生が出てきた。
五十歳くらいの、いつも爪の脇に絵の具の残っている人だった。僕たちを見るより先に、黒いノートを見た。
「それ、どこで手に入れた」
声が変わった。
「図書室です」
「私に預けなさい」
先生の手が伸び、玲奈がノートを引いた。
「返したばかりでしょう」
沈黙が落ちた。
先生は玲奈を見た。玲奈も先生を見ていた。僕だけが、二人の知っていることを知らなかった。
「水城。約束が違う」
「隠しておく約束はしていません」
「君が決めていいことではない」
「先生もです」
木島先生は口元を拭った。何かを言い直そうとして、結局、準備室の扉を閉めた。
玲奈は机の上に両手を置いていた。右の小指だけが小さく震えていた。
「ノート、君が置いたの」
「うん」
「僕に読ませるために?」
「榊君、広報委員でしょう。古い学校新聞も読めるし、先生たちも話を聞く」
「便利だったんだ」
玲奈は言い返さなかった。
それがいっそう腹立たしかった。
帰ろうとした僕を、彼女は追いかけなかった。ただ、椅子から立ち上がって言った。
「使った。ごめん。でも、読んでほしいと思ったのも本当」
廊下へ出ても、りんごの匂いが鼻の奥に残っていた。
三 白い四角
調べるのをやめなかったのは、正義感のためではなかった。
玲奈に何を見抜かれたのか、確かめたかった。
広報室の古い棚には、学校新聞が年度別に綴じてあった。五年前の十月号には、文化祭の記事が載っていた。
美術部の展示を写した写真。その中央に、白い四角があった。
汚れでも反射でもなかった。印刷される前に、写真の一部が塗りつぶされていた。
四角の下には、小さな題名が残っていた。
朝倉透子『窓』。
僕は指を止めた。
全部消されたという噂は、すでに間違っていた。名前はここにある。誰でも開ける棚の中に。
そのとき、書庫の整理をしていた司書の佐伯さんが声をかけてきた。
「それ、印刷し直した号ね」
「前のものもありますか」
佐伯さんは少し迷い、机の引き出しから薄い封筒を出した。
「校正刷り。処分するように言われたけど、修正の記録までなくすのは違うと思って」
封筒の中では、白い四角の場所に一枚の自画像があった。
玲奈の絵とは違った。描かれた人は、見る側に背を向けていた。前方の窓は閉じ、窓ガラスには部屋だけが映っている。
作品の横の札には、「三年・十八歳」と、作者自身による説明が添えられていた。
誰かに向けた絵というより、誰かがいなくなるのを待っている絵に見えた。
「これが問題になったんですか」
「絵が、というより」
佐伯さんは机に両手を置いた。
「写真の一部分だけが外に出たの。説明の札を切り落としてね。先生が生徒を描いた、と」
「自画像なのに」
「そう。けれど訂正より、最初の話のほうが広がった」
僕は新聞を見た。白くすれば、なかったことになる。けれど白い四角は、ほかのどんな色より目立っていた。
「朝倉さんは、そのあとどうしたんですか」
「二月に退学した。通信制へ移ったと聞いたわ」
「転校……」
「その先は、本人から聞いたことしか話せない」
佐伯さんは封筒を片づけた。
僕は、別の質問を飲み込んだ。
その人は生きていますか。
どうしてそんな質問が口元まで出かかったのか、自分でもわからなかった。
帰り際、僕は廊下の突き当たりにある絵を見た。
灰色の窓を描いた、地味な絵だった。入学した日からそこにあり、三年間、一度も足を止めたことがなかった。
札には「習作」とだけある。
校正刷りの自画像と、窓の形が同じだった。右上の桟だけ、少し傾いている。
近づくと、灰色の下から、細い曲線が透けて見えた。
誰もいない部屋ではなかった。
誰かを、塗りつぶした部屋だった。
四 窓の下
「これを塗ったのは、先生ですか」
翌日、僕は木島先生を絵の前へ呼んだ。
先生は持っていたプリントを脇に挟み、眼鏡を外した。
「違う」
「じゃあ誰が」
「朝倉さん自身だ」
用意してきた言葉が、ひとつ残らず使えなくなった。
「消せって言われたんですか」
「私は言っていない」
「ほかの先生が?」
「榊。君はもう、どういう話にするか決めているだろう」
僕は口を閉じた。
廊下の向こうで、誰かが上履きを鳴らして走っていた。
「では、なぜ名前がないんですか」
先生は札を見た。
「それは、私が外した」
「守るためですか」
「そう説明した」
窓の外に向けて、先生は眼鏡を拭いた。曇ってなどいなかった。
「でも、そのとき私は、私自身も守っていた」
五年前、写真が広まったあと、学校は作品の展示を取りやめた。木島先生が訂正文を出そうとすると、校長は、騒ぎを大きくするだけだと止めたという。
「それで従ったんですか」
「従った」
「本人は、何て」
「自分で描いたと言わせてほしいと」
先生は眼鏡をかけ直した。
「私は、もう少し待とうと言った」
その一言なら、僕にも言えたと思った。正しい順番を待とう。大人に任せよう。落ち着いてから考えよう。僕の得意な言葉ばかりだった。
「ノートを隠していたのも?」
「彼女が置いていった。返せずにいるうち、私も開けなくなった。去年の秋、家族から連絡が来て、ようやく返したんだ」
先生の指が、額縁の下へ動いた。
「これは、退学の日に彼女が持ってきた。保管してほしいと言われた。だが私は名前を外して、こんな場所に掛けた。倉庫へ入れるよりましだと考えてね」
「朝倉さんには、断ったんですか」
先生は答えなかった。
答えのない時間にも、種類があるのだと、そのとき初めて知った。
玲奈は旧校舎の階段に座っていた。
夕日はとっくに消え、非常灯だけが緑色だった。僕は一段空けて座った。
「先生から聞いた」
「どこまで」
「自分で塗ったんだって」
玲奈は膝の上で手を組んだ。
「私は、ずっと先生がやったんだと思ってた」
「家族なの」
彼女は頷いた。
「姉。両親が離婚する前は、私も朝倉だった」
僕は、彼女の絵に白いまま残っていた顔を思い出した。
「お姉さんと同じ絵を描いてるの?」
「同じには描けないよ」
「でも、同じことをしようとしてる」
玲奈は少し考えてから言った。
「そうかもしれない。今なら、私なら大丈夫だって、見せたかったのかも」
非常灯が一度、低く唸った。
「それ、誰に見せたいの」
彼女は僕を見た。
いつも先に答えを知っているように見えた目が、今は、行く先を失っていた。
「わかんない」
それだけ言って、玲奈は顔を膝に伏せた。
五 いい話
共通テストが終わると、母は僕の自己採点表を冷蔵庫に貼った。
僕は翌朝、それを外した。
「どうしたの。よくできてるじゃない」
「毎朝、見たくないから」
母は一瞬だけ傷ついた顔をして、それから「わかった」と言った。
もっと大きな争いになると思っていた。拍子抜けするほど簡単だった。
けれど医学部を受ける理由は、まだ訊けなかった。両親にではなく、自分に。
学校へ来る三年生が少なくなっても、玲奈は美術室にいた。
僕は二次試験の勉強の合間に、学校新聞の卒業号の原稿を書いた。
見出しは「消された少女」だった。
書き出しはうまくできたと思った。
五年前、この学校には一人の少女がいた。自分を表現しようとした彼女の声は、大人たちの都合によって奪われた。
玲奈に読ませると、彼女は二行目で紙を伏せた。
「この少女って、誰」
「お姉さんだよ」
「姉は二十三歳だけど」
僕は彼女を見た。
玲奈は、僕の表情を見て眉を寄せた。
「榊君、もしかして」
僕は何も言えなかった。
「死んでると思った?」
廊下のストーブが、かちりと鳴った。
「誰も、そんなこと言ってない」
「でも、消えたって」
「この学校からでしょう」
窓の外で、融けかけた雪が庇から落ちた。
僕は自分が調べたものを思い返した。新聞。作品。教師の証言。どこにも、死んだとは書いていなかった。佐伯さんは、通信制へ移ったとさえ言った。
生きているかもしれない人を、僕は、物語を完成させるために死なせていた。
「どうして教えてくれなかったの」
責める声が出たことに、自分で驚いた。
玲奈の顔が硬くなった。
「姉の暮らしを、勝手に話せなかった」
「ノートは勝手に読ませたのに?」
今度は彼女が黙った。
僕たちはしばらく、互いの悪いところがよく見える距離に座っていた。
「それは、私が悪い」
玲奈が言った。
「姉が書いたことなら、本当の姉をわかってもらえると思った。でも、姉に訊いてない。私も」
僕は原稿を裏返した。白い面にも、文字の跡が透けていた。
「お姉さんに、話を聞けるかな」
「何のために?」
すぐには答えられなかった。
「記事にしていいかも含めて、聞きたい」
玲奈はスマートフォンを出したが、すぐには触らなかった。
「嫌だって言われたら」
「書かない」
「そこに、一番大事な答えがあっても?」
「書かない」
二度目は、少しだけ本当に近づいた気がした。
二月の中旬、玲奈と駅まで歩いた。
彼女は美大への進学が決まっていた。僕の二次試験は十日後だった。
「医学部、受けるんだ」
「うん。今すぐ違う自分になる理由も、うまく言えない」
「うまく言わなくてもいいのに」
彼女はそう言って、僕の袖についた白い糸を取った。
その仕草が不意に近くて、僕は立ち止まった。
「玲奈」
初めて名字を外した。
彼女が振り返る。僕は手を出しかけて、止めた。
「手、つないでもいい?」
彼女は、何も持っていないほうの手を差し出した。
「冷たいよ」
本当に冷たかった。
信号が二度変わるまで、僕たちは渡らなかった。何か言えば、今の気持ちに名前がついて、それだけになってしまいそうだった。
六 朝倉透子
透子さんとの待ち合わせは、僕の二次試験の翌日だった。
駅前の喫茶店に、彼女は七分遅れて来た。
「ごめん。店で、食洗機が壊れて」
灰色の上着を脱ぎ、椅子の背に掛ける。玲奈によく似ていたが、話すときの間が違った。玲奈が言葉を選ぶところで、彼女は言い終えてから考えるようだった。
「あ、私、パン屋で働いてるんです」
僕が知っているはずのないことを、普通に教えてくれた。
悲劇から現れた人には見えなかった。
そう思った自分を、僕はまた恥じた。
「ノート、勝手に読んですみませんでした」
「玲奈から聞いた。あれは、二人に怒っていいところだよね」
「うん」
玲奈が答えた。
透子さんは水を飲み、僕のほうを見た。
「謝ってくれてありがとう。今日は、話せることだけ話すね」
彼女が自画像を描いたのは、十八歳の秋だった。
「写真だと、いつも変な顔をしてたの。可愛く写りたいと思ってる顔。それが嫌で、違うものを描いてみたかった」
「それで服を描かなかったんですか」
「うん。でも、すごい作品だって思われたい気持ちもあった。全部、混ざってた」
展示してよいか、木島先生は本人に確認した。彼女は承諾した。ところが学校の広報用写真が出たあと、絵の部分だけを切り取った画像が広まった。
誰が最初に説明を変えたのかは、今もわからない。
教師との関係をからかう人もいれば、心配するふりで確かめに来る人もいた。
「否定すればするほど、詳しく聞いてもいいと思われた。そうじゃないなら、どうして描いたのって」
彼女は砂糖の袋を一本取り、封を切らずに置いた。
「学校は、誤解される表現を控えようと言った。私、描いた理由を説明するために、絵を描いたわけじゃなかったんだけど」
「どうして自分で塗ったんですか」
僕が訊くと、彼女は窓の外を見た。
「その絵を見ると、もう、あの人たちが言ったことしか思い出せなかったから」
白いカップの縁に、彼女の指が触れていた。
「自分で消したかった。描いたのも、消したのも、私の手だってわかりたかった」
「なのに、学校へ?」
「家には置けなかった。でも、捨てるのも嫌だった。矛盾してるでしょう」
彼女はそこで初めて笑った。
木島先生なら捨てないと思ったのだという。助けてくれなかったことと、全部を信じられなくなることは、同じではなかった。
「あれ、まだあるの?」
「廊下に掛かっています」
「廊下」
彼女は驚き、それから、困ったように息を吐いた。
「預けたのに、飾っちゃったんだ」
誰もいない絵なら、もう傷つく人もいない。先生はそう考えたのかもしれない。その考えの中に、描いた人だけが入っていなかった。
「返してもらう?」
玲奈が訊いた。
「そうだね。そろそろ、置く場所をつくろうかな」
透子さんは携帯電話を取り出し、何かを短く打った。
僕は取材用に用意してきた質問を、机の下で二つ消した。
最後の問いは、「今は幸せですか」だった。
それも、消した。
帰るとき、透子さんは僕の持っていたノートを一度開いた。
「これ、懐かしい。うちにいた猫」
「犬じゃないんですか」
「ひどいな」
玲奈が噴き出した。
透子さんは少しむっとして、猫の耳を指でなぞった。
僕はそのページを、初めてちゃんと見た気がした。
七 最後のページ
卒業式の前日、木島先生から美術室へ来るように言われた。
机の上に、廊下から外された『窓』があった。
「朝倉さんに返す。いや、水城さんだね、今は」
先生は、古い額縁の埃を柔らかい刷毛で払っていた。
玲奈は絵を見下ろした。灰色の下には、近づかなければわからない程度に、消された線が残っていた。
「全部は、消さなかったんですね」
先生は頷いた。
「彼女がそこまでにしたんだ」
僕はノートを開き、終わり近くの文章をもう一度読んだ。
絵の裏を見てください。
表にあるものだけが、私ではありません。
格言のような言葉だと思っていた。しかし、ただの具体的な頼みだったとしたら。
「裏を見たことはありますか」
先生は首を横に振った。
「額ごと預かった。外してはいない」
絵を裏返すと、茶色い板を留める金具が六つあった。一か所だけ、金具に緑色の絵の具がついていた。
僕はノートの切れ端を見た。
同じ色だった。
「最後のページ、ここにあるのかもしれない」
玲奈が金具に手を掛け、止めた。
僕たちは顔を見合わせた。
「訊こうか」
僕が言うと、彼女は頷いた。
透子さんの返事を待つ間、木島先生は梱包用の段ボールを取りにいった。
校庭では、明日のためにパイプ椅子が運ばれていた。砂を踏む音が聞こえる。玲奈の絵には、まだ布が掛かっていた。
「完成した?」
「うん」
「見てもいい?」
玲奈は布を取った。
絵の中の彼女は、色のついたシャツを羽織っていた。今、ここで着ている、絵の具だらけのシャツだった。顔は思ったより幼く、口元は何か言いかけて曲がっていた。
「服、描いたんだ」
「描いてみたら、こっちのほうがよかった」
その簡単な理由が、僕には嬉しかった。
「お姉さんには見せる?」
「見せたい。でも先に、私が見終わってから」
彼女は布を畳んだ。
「榊君が来ると、平気なふりしてた」
「最初から?」
「最初、特に。絵を変に思われたらどうしようって、ずっと考えてた」
僕は筆洗を見た。初めて来た日、目を逸らした先にあったものだった。
「変に思った」
「知ってる」
「でも、また来たかった。ノートがなくても」
玲奈は畳んだ布の角をそろえた。そろったあとも、しばらく指で押さえていた。
スマートフォンが震えた。
透子さんからだった。
「見てもいいよ。ただし勝手に発表しないこと。昔の私は、何でも人に見せたかったわけじゃないので」
最後に、小さな猫の絵文字がついていた。
木島先生が戻り、額の金具を起こした。
裏板の内側に、二つ折りの紙が挟まっていた。
紙は少し波打っていた。開くと、下の端が三角に欠けている。ノートに残った切れ端へ重ねると、緑色の染みが、一つのいびつな丸になった。
僕は息を吸った。
教師を告発する言葉でも、噂を否定する証言でもなかった。
君は、誰にも望まれなくても、自分を愛せるか。
その下は、白かった。
三人とも、何も言わなかった。
僕は、五年前の彼女がこれを書いているところを想像しかけた。けれど、その顔も、部屋も、僕は知らなかった。泣いていたのか、腹を立てていたのか。夕食に呼ばれて、途中で筆を置いただけかもしれない。
知らないことを、知らないままにしておく。
たったそれだけのことに、力が要った。
「答え、書いてないね」
玲奈が言った。
「うん」
自分なら何と書くか考えた。愛せる、と書けば、強い人になれる気がした。愛せない、と書けば、正直な人になれる気がした。
どちらも、人からどう見えるかを考えていた。
僕は紙を折り直した。
「返そう」
玲奈が、ノートの最後に紙を挟んだ。
木島先生は外していた古い札を引き出しから出した。朝倉透子『窓』。捨てずに取ってあったのだ。
「これも、返してください」
先生は玲奈に頭を下げた。
「それと、謝りたいと伝えてほしい。私から直接連絡してもいいか、と」
玲奈はすぐには頷かなかった。
「訊いてみます」
先生は、はい、と答えた。
八 名前を呼ぶ
卒業式の朝、僕は最後の学校新聞を配った。
「消された少女」という記事は載せなかった。
代わりに、広報委員としての短い挨拶を書いた。三年間ありがとうございました、という、ごく普通の文章だった。知らないことが多すぎた。普通の挨拶しか書けない自分を、今度は急いで埋め合わせなかった。
式が終わると、教室は急にうるさくなった。
受験が終わった者も、まだ残っている者も、机を寄せて写真を撮った。安西が僕の肩に腕を回し、変な顔をするように言った。
どうすればいいかわからず、僕は半端に口を開けた。
「お前、顔にまで採点基準あるのかよ」
僕は笑った。撮られた写真では、本当に変な顔をしていた。
消してくれとは言わなかった。
靴箱で、玲奈が待っていた。
僕たちは絵の入った箱を二人で運んだ。駅から来る透子さんに渡すことになっていた。
箱は持ちにくかった。歩幅が合わず、何度も角が制服にぶつかった。
「そっち、もう少し上げて」
「上げてる」
「上がってない」
途中で休むと、段ボールの持ち手が指に赤い跡をつけていた。
玲奈が僕の手を見て笑った。
「一人で持つって言わなくてよかったね」
「言おうとした」
「知ってる」
校門の外では、保護者たちが花束を抱えていた。僕の母は遠くから手を振り、写真はあとでいいから、と口の形で伝えてきた。
僕は頷いた。
三月の半ば、透子さんから短いメールが来た。
木島先生と会ったこと。絵は自分の部屋に置いたこと。そして、学校に残す記録について考えたこと。
「私が描いた自画像だったことは、ちゃんと残してほしいです。あとのことを全部わかってもらうのは、今は、いったんやめます」
追伸には、最後の一枚についても書いてあった。
「紙を切ったのは私です。絵を塗り直した夜、あの問いだけは捨てられなかった。みんなに読まれるのは嫌で、でも誰かには見つけてほしくて、裏に入れました。面倒くさいね、昔の私」
僕にも覚えがあった。
僕は、その面倒くささを消さずに覚えていたいと思った。人にわかってもらえるように整えた途端、こぼれ落ちてしまうものがある。
本人が確かめた訂正の文面を、学校は古い新聞の保存ファイルへ添えた。公開用の写真にも、修正があったことを示す説明が加わった。
遅すぎると思った。
それでも、遅いことと、しなくていいことは違うと思った。
記事を書く話は、まだ約束していない。
医学部には合格した。
父は電話口で、僕が話し終える前に喜んだ。
「それでさ」
僕は、父の声が落ち着くのを待った。
「医者になるのが本当に自分の希望か、まだ、よくわかってないんだ」
電話の向こうが静かになった。
「合格したのに?」
「うん。合格したけど」
しばらくして、父は、今度ちゃんと話そうと言った。
その「今度」を、なかったことにはさせないつもりだった。
玲奈が東京へ出る前日、僕たちはあの喫茶店で会った。
彼女は窓際に座り、鞄から新しいスケッチブックを出した。
「離れたら、どうなると思う?」
「わからない」
「そこは、何か言ってよ」
彼女は笑ったが、指は紙の端を折りかけていた。
僕はその手に自分の手を重ねた。
「会いたいと思う。会えるようにしたい」
「うん」
それ以上の約束を、彼女は要求しなかった。
透子さんのノートは、もう僕の手元にはなかった。最後の問いだけが、ときどき思い出したように胸の中で開いた。
まだ答えは出ていない。
ただ、誰にも望まれない、という言葉を思い浮かべるとき、その「誰にも」を決めているのは誰なのか、以前より慎重に考えるようになった。
玲奈が白いページに鉛筆を走らせた。
僕は窓に映る自分を見た。十八歳。春から大学生。医学部。そうした言葉を全部並べても、今、向かいの人と別れたくない理由には、少しも届かなかった。
「悠真」
顔を上げた。
「動かないで。今の顔、描きたい」
僕は姿勢を直しかけて、やめた。
玲奈の鉛筆が、紙の上を動いていた。
参考文献:裸の問い(生成AIにより作成)
問:物語の最後にある「僕は姿勢を直しかけて、やめた。」という行動には、悠真のどのような変化が表れているか。物語全体を踏まえ、初めの頃の悠真の考え方との違いがわかるように、100字以内で説明しなさい。















